2026/04/23

AI創薬第二弾 — がんワクチンが「あなた一人専用」で効き始めた

AI創薬第二弾 -- がんワクチンが「あなた一人専用」で効き始めた — CEOブログ サムネイル

前回のAI創薬第一弾では、グーグル傘下のAI研究所ディープマインドのデミス・ハサビスが、タンパク質の形を当てるAIでノーベル化学賞を取った話を書いた。今回はその続き。形を当てた先で、AIが薬そのものを作り始めている話である。

ハサビスは2025年のテレビ番組でこう言った。「薬を1つ作るのに普通は10年と数十億ドルかかる。それを数ヶ月、ひょっとすると数週間に縮められるかもしれない」「10年以内にAIの助けで全ての病気を治せる日が来ると思う。そうならない理由が見当たらない」。ダボス会議では「今年中にAIが設計した薬を人間での試験に乗せたい」とも言っている。

全ての病気を治す、と。頭の中がお花畑じゃないのか、と一瞬思う。でも、前回書いた通り、この人たちはもう実際に生物学50年の難問をAIで解いた実績がある。

AIで設計した薬が、もう人間で効いている

ハサビスが立ち上げた創薬会社アイソモルフィック・ラボの薬が人間での試験に入る前に、香港のインシリコ・メディスンという別のスタートアップに先を越されていた。

インシリコが作った薬は、肺がだんだん固くなる難病を狙ったもので、どのタンパク質を攻めれば効くかをAIが見つけ、そこにハマる分子もAIが設計した、世界初の「全部AI発」の薬である。

中国の21施設で患者71人を集めた試験の結果が、2025年6月、世界最上位クラスの医学誌に載った。薬を飲んだ人たちは肺活量が改善、偽薬を飲んだ人たちは逆に悪化。ちゃんと効いたのだ。

まだ承認薬ではない、中規模の試験で有望という段階だ。ただ「AIが最初から最後まで関わった薬が、人間の体で効く」ことを、厳しい査読を経た一流医学誌で認められたのは、これが初めてである。2025年の後半に入って、同じような「AI発の薬が臨床で効いた」報告が、世界中で急に並び始めた。

2日で設計、10ヶ月で実用化を実現したmRNAという仕組み

AI創薬の本当の凄さは、mRNA(エムアールエヌエー)という仕組みと組み合わさった時に出てくる。

僕らの体の細胞は、毎日山ほどのタンパク質を作っている。髪の毛、筋肉、消化酵素、免疫細胞、全部タンパク質だ。設計図は細胞の奥にあるDNAに書かれているが、DNAは金庫に保管されていて直接は使えない。そこで必要な部分だけを書き写した「臨時のコピー」が作られ、細胞の工場まで運ばれて、そこでタンパク質が組み立てられる。この臨時のコピーが、mRNAだ。

普通のワクチンは、弱らせたウイルスやその部品を注射して「こいつが敵だ」と免疫に覚えさせる。mRNAワクチンはそれをやらない。「ウイルス表面のトゲを体内で作ってくれ」という設計図のコピーだけを注射する。細胞がそれを受け取って、勝手にトゲを作り、免疫が「こいつか」と顔を覚える。注射のあとしばらくすると、体内のコピーもトゲも分解されて消える。

これの何が強いか。ウイルスを一切扱わなくていい。本物のウイルスを培養するには厳重な隔離施設と長い時間が要る。研究員の感染事故のリスクもつきまとう。mRNAワクチンはこの工程を丸ごと飛ばせる。ウイルスの遺伝配列さえ分かれば、あとは化学合成で設計図のコピーを作るだけだ。しかも、相手がどんなウイルスでも製造装置はほぼ同じで、中身の配列だけ差し替えればいい。工場が汎用化するのだ。

2020年1月11日、新型コロナウイルスの遺伝配列が世界に公開された。ただし、中国政府の公式発表としてではない。

上海の研究者、張永振(チャン・ヨンチェン)のチームが、武漢から送られたサンプルを1月3日に受け取り、40時間足らずでウイルスのゲノムを読み切った。未知のウイルスのサンプルを手にしてから、全遺伝情報を特定するまでが2日足らずの仕事になっている、というのが2020年の時点での生命科学の水準だ。

張は解析結果を握ったまま、政府の正式な公開許可が降りるのを待っていた。でも、外側では感染がじわじわ広がっている。1月11日、彼は待ちきれず、共同研究者のエドワード・ホームズ(シドニー大学)を通じて、研究者向けのオープンサイト「virological.org」に配列を公開した。翌日、彼の研究所は「改修のため」と称して一時閉鎖される。事実上の処分とみられている。

ただ、もう手遅れだった。配列は瞬時に世界中に広まり、その2日後の1月13日、アメリカの製薬会社モデルナと政府の研究所は、ワクチンの設計を終えている。ウイルスが見つかってから設計図のコピーを書き終わるまで、たった2日。3月には最初の人に注射、12月には緊急使用許可。従来のワクチンなら10年かかることもある世界で、10ヶ月の実用化だ。

張の規則破りが、世界のワクチン開発に数週間から数ヶ月分の時間を先回りさせた。技術が揃っていても、誰かが「覚悟を決めて公開する」一歩を踏まなければ、この速度は出なかった。運が良かったのではない。仕組みが成立していて、配列が世に出た瞬間に時計が回り始めた。

この張の判断、IT業界の人には実はよくある話だ。「情報を抱え込んで独占するより、オープンにして世界中で使い倒したほうが、人類全体の進歩は圧倒的に速い」。この原則がIT業界で先に実証され、いま生命科学でも実証されている最中だ。前回の第一弾で書いた、ディープマインドがAlphaFoldの2億個のタンパク質構造を無料で世界にばら撒いたのも、張の配列公開も、同じ系譜の話である。創薬という、これまで特許と独占で動いてきた世界に、オープンソース的な倫理が急速に侵入してきている。

世界に1本だけの、あなた用のがんワクチン

mRNAの汎用性が本領を発揮しているのが、がん治療だ。

米国で開発中のあるワクチンは、患者一人ひとりのがん細胞を遺伝子解析して、その人のがんにだけある異常を狙い撃つように設計される。世界にその1本だけの薬、である。タチの悪い皮膚がん(メラノーマ)の再発リスクが高い患者を集めた試験では、既存のがん薬だけを使うのに比べて、再発・転移のリスクが44%減、遠くへの転移だけで見れば65%減。3年追跡しても効果が続いている。肺がんや皮膚がんなど、他のがんでもさらに大規模な試験が2025年から動き出している。

AIで分子を設計する技術と、mRNAで「配列を書けば薬になる」仕組みが出会うとどうなるか。ハサビスがダボス会議で口にした発言がわかりやすい。「一人一人の体質に最適化された薬が、AIによって一晩で設計されるような時代が来る」。

一晩で、である。

次回、薬は「治すもの」から「設計するもの」に変わる

ここまで見てきたのは、AIで薬が設計できる × mRNAで配列を書けば薬になる、という2つのかけ算の話だった。このかけ算が揃うと、技術的には「一人の人間の体質に完全に合った化合物」を設計できるようになる。今は病気を治す文脈で語られているが、原理的には目的を変えれば何でも作れる。

次回の第三弾は、ここから一歩踏み込んで、思考実験をひとつやりたい。仮に「副作用ゼロ、依存性ゼロ、健康に害のない、ただ気分が良くなるだけの薬」が、僕専用に設計されたとしたら、人類はどうなるか、という話である。倫理的にはかなりグレーなテーマだけど、ここまで見てきた技術の進み方からすると、そんなに遠い未来の話でもない。楽しんで考えるべきテーマだと思っている。

前回の第一弾は、タンパク質の形を当てる話だった。今回は、形を当てた先にある「じゃあその形にピタッとハマる薬を作ろう」の話。そして薬の定義が、治療から最適化に、ゆっくり滑っていく。

用語集

  • mRNA(エムアールエヌエー) — 細胞のなかでタンパク質を作るための「設計図のコピー」。人工的に作って体に注射すると、細胞が指定されたタンパク質を作ってくれる。配列を書き換えれば別の病気にも使える汎用の仕組み
  • mRNAワクチン — ウイルスそのものや部品ではなく、「ウイルスのトゲを体内で作って」という設計図のコピーだけを注射するワクチン。新型コロナワクチンの多くがこの仕組み
  • 個別化がんワクチン — 患者一人ひとりのがん細胞を遺伝子解析して、その人のがんにだけある異常を狙うように設計されるワクチン

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