2025/05/26

止まったエスカレーターが教えてくれる、AIと脳の意外な共通点

目次
  1. AI研究と脳科学の関連 – 予測による省エネが示す知能の本質
  2. 脳は想像以上の燃費の悪い器官である
  3. 脳は差分処理によってエネルギーを節約している
  4. コンピューターも同じ原理を使っている
  5. 止まったエスカレーターが教えてくれること
  6. 精神疾患も予測システムの問題として理解できる
  7. AIが脳を模倣し、今度は脳科学がAIから学ぶ
  8. 思考実験:もし人間がフレーム間予測を失ったら?
  9. なぜ僕は今、この話に興味を持ったのか
  10. 自由エネルギー原理という壮大な理論
  11. 最後に:知能の本質とは何か

AI研究と脳科学の関連 – 予測による省エネが示す知能の本質

最近、AIと脳科学の研究がお互いに影響し合う面白い現象が起きている。特に興味深いのは、どちらも「予測によってエネルギーを最小化する」という共通の原理で動いているということだ。今回は、この予測システムがいかに効率的で、そして時として不具合を起こすかについて、身近な体験と最新の科学研究を交えながら考えてみたい。

脳は想像以上の燃費の悪い器官である

まず驚くべき事実から始めよう。人間の脳は体重のわずか2%程度の重さしかないのに、基礎代謝の実に20~25%ものエネルギーを消費している。成人男性なら1日に約400kcalを脳だけで消費していることになる。

子どもの場合はさらに極端で、5〜6歳の子どもでは消費カロリーの実に60%が脳によるものだという。これはもう、体に巨大なエンジンを載せて走っているようなものである。

脳は差分処理によってエネルギーを節約している

脳は推論するシステムであり、自由エネルギー原理によって脳の多様な機能を説明する理論が提唱されている。この理論の核心は、脳が予測信号と感覚知覚の誤差が最小化するように信念、脳内モデルを修正するということだ。

つまり、脳は常に「次に何が起こるか」を予測し、実際の感覚入力との差分(予測誤差)のみを処理している。差分がなければ、ほとんど処理する必要がない。これは非常に効率的な情報処理方法である。

コンピューターも同じ原理を使っている

コンピューターの世界でも同じような差分処理が行われている。一つのわかりやすい例は動画圧縮技術だ。

動画画像の性質として、前のフレームと現在のフレームは良く似ている。フレーム間予測とは、動画画像のこの性質を利用して、前のフレームから現在のフレームを予測する技術である。フレーム間予測を用いた圧縮では、入力画像と予測画像の差分だけを処理すれば良いので、非常に高い圧縮率を達成できる。

これは脳の情報処理と本質的に同じである。全体を再度処理するのではなく、予測との差分のみを処理することで、大幅なエネルギー(この場合は計算資源と記憶容量)を節約しているのだ。

止まったエスカレーターが教えてくれること

この予測システムの威力と限界を、私たちは日常生活で体験している。それが「止まっているエスカレーターでの違和感」である。

エスカレーターが動いている場合、体のバランスを保つために無意識に前方へ少し重心を移動している。止まっているエスカレーターに挑む場合もエスカレーターは動いているものという潜在意識から、動いている時と同様の動きを無意識にしてしまう。

目で見てエスカレーターが止まっていると判断できても、そのエスカレーター自体の見た目が変わらないので、「原始的な脳」はいつもの動作を無意識に行ってしまうため、体の重心を前へ移動させてしまう。

これは脳の予測システムが高度に最適化されている証拠でもある。エスカレーターという視覚的手がかりを見ると、過去の経験に基づいて運動制御を自動的に調整する。しかし、この効率的なシステムが時として裏目に出るのである。

精神疾患も予測システムの問題として理解できる

統合失調症と自閉症も精度制御との関わりで説明されるという。

統合失調症の場合、予測の精度制御に問題が生じ、現実と予測の境界が曖昧になることがある。予測信号と感覚知覚の誤差が最小化するように信念、脳内モデルを修正するプロセスがうまく働かないため、幻聴や妄想といった症状が現れる可能性がある。

自閉症については、さらに興味深い説明がある。すべてがサプライズとして処理するので疲れる→外に出たがらなくなる。同じ行動をし続けるという見方だ。つまり、予測システムの精度が低いため、日常のあらゆる出来事が「予測誤差」として大量のエネルギーを消費することになる。その結果、変化を避けて同じパターンの行動を繰り返すようになるのかもしれない。

AIが脳を模倣し、今度は脳科学がAIから学ぶ

AIが脳の模倣をして進化を遂げた、いまAI研究と脳科学はお互いに影響を及ぼし合っている。

初期のAIは脳の仕組みを真似ることから始まった。ニューラルネットワークという名前からもわかるように、人工知能は脳の神経細胞(ニューロン)の働きをモデル化したものだった。

しかし今では逆の現象も起きている。AIの研究で明らかになった効率的な情報処理方法が、脳科学の理解を深めるヒントになっているのだ。自由エネルギー原理やベイズ推論においては、外界の生成モデルを決めると、自由エネルギーが自動的に導かれる。推論や学習は、自由エネルギーの最小化により行われる。

思考実験:もし人間がフレーム間予測を失ったら?

ここで少し想像してみよう。もし人間の脳が差分処理ではなく、毎瞬間を完全に新しい情報として処理しなければならなくなったら、どうなるだろうか?

おそらく、脳のエネルギー消費は現在の数倍に跳ね上がるだろう。歩くたびに「この足の感覚は何だろう?」「この音は何だろう?」と毎回ゼロから分析しなければならない。これでは生存すること自体が困難になる。

自閉症スペクトラムの一部の症状は、まさにこの状態に近いのかもしれない。予測システムがうまく働かないため、日常の変化がすべて大きな負荷となってしまう。

なぜ僕は今、この話に興味を持ったのか

実は、この話を深く考えるようになったきっかけがある。弊社でAIシステムの開発をしていると、「効率的な情報処理」がいかに重要かを日々実感する。CPUやGPUのリソースは有限だし、電力消費も無視できない。

そんな中で、人間の脳が何百万年もかけて進化させてきた「予測による差分処理」という仕組みが、最新のAI技術でも基本原理として使われていることに、なんとも言えない感動を覚える。

機械学習の世界でも、全データを毎回処理するのではなく、前回の学習結果との差分を効率的に計算する手法が発達している。注意機構(Attention)やトランスフォーマーアーキテクチャなども、ある意味では「重要な差分」に集中する仕組みと言えるだろう。

自由エネルギー原理という壮大な理論

自由エネルギー原理は、2006年にカール・フリストンによって発表されて以降急速に発展し、現在では発達科学や社会科学をも含む大統一理論として分野の垣根を越え広く認められている。

この理論の面白いところは、自由エネルギー原理とは、環境と平衡状態にある自己組織化システムは、その自由エネルギーを最小にしなければならない、というものである。この原理は、基本的に適応システム(動物や脳などの生物学的要素)が、無秩序になる自然な傾向にどのように抵抗するかを数学的に定式化したものであるということだ。

つまり、生物が生き続けるためには、エントロピー(無秩序さ)の増大に抗して、自分の状態を維持しなければならない。そのために最も効率的な方法が「予測による差分処理」だったというわけである。

最後に:知能の本質とは何か

AIの開発に携わっていると、「知能とは何か?」という根本的な問いに何度も立ち返る。今回調べた内容から見えてきたのは、知能の本質は「効率的な予測システム」にあるのかもしれないということだ。

脳は推論するシステムであり、知覚、認知、運動、思考、意識──それぞれの仕組みの解明は進んできたが、それらを統一的に説明する理論が長らく不在だった。しかし自由エネルギー原理によって、これらすべてが「予測誤差の最小化」という単一の原理で説明できる可能性が出てきた。

私たちがAIシステムを設計するとき、人間の脳から学べることはまだまだたくさんありそうだ。そして同時に、AIの研究が進むことで、私たち自身の心や意識の仕組みも少しずつ明らかになっていく。

止まったエスカレーターで感じるあの微妙な違和感も、実は数百万年の進化が生み出した精巧な予測システムの証拠だった。技術と人間の境界が曖昧になっていく現代だからこそ、このような根本的な理解が重要になってくるのかもしれない。

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